日本では「お金」という言葉はあまり良いイメージが無いですよね。「お金の話ばかりするな」。とか「お金のために~をした」というと嫌われたり。
今季、プロ野球の広島から巨人に移籍した丸選手が一時、「結局お金か」とファンの間では落胆されたという話題を耳にしました。ファンからすればやはり、チームのビッグネームが離れるわけですから寂しいという気持ちはありますよね。当然です!
しかし、「お金=価値」と考えると、短い現役生活の中で、「自分の価値」を認めてもらえる場へ行くのは当然の事で、これはプロ選手に限らずサラリーマンでも同じです。ただ、プロスポーツ選手の場合は、1シーズン、1シーズンが勝負で、短期の結果が評価されるわけで、そこには契約があったり、肖像権があったりと、ビジネス的要素も含むため大きなお金が動くというわけです。
では何故?日本では目的を「お金」にすると嫌われるのか?
私も以前、プロサッカー選手のマネジメントをやっていた経験から、このことについて考えた事があり、ある歴史書を見て「なるほど」と思いました。
これはあくまで個人的な考えなのですが、日本では歴史的に「貴穀賤金(きこくせんきん)」が尊ばれ、「士農工商」という言葉にも通じる通り、年貢は「米(穀物)」であった事実。そして物も作らずに人の物で稼ぐお金は「賤しい(いやしい)」という考えがあったというのです。
*近年では「四民平等」というようになっているようですが、多少の身分の差はあったのかもしれません。
身分についての事は分かりませんが、恥ずかしながら、この本を読むまで貴穀賤金という言葉は知らかった私ですが、このような文化で発展してきた日本、そして日本人が「お金」に対する負のイメージは「これなんだ」と、納得できました。
一歩引いたり、忖度したり、協調性を求められたり。これは日本人の良いところでもあるのですが、「お金」や「法律」を幼少期からから学ぶ事は、将来なりたい自分に向けて選択肢が広がったり、交渉の場に客観的な立場で臨めたりと。知る事で広がる世界もあります。
今後はプロスポーツの世界だけでなく、一般の社会の中でも国や人種の境界線がなくなる時代がやってきます。プロ選手同様、今後は「個」が見られる時代の到来に向けて、どうやって生きて行くのか?
準備をしなければならない時代が来ているのかもしれません。